日本学園の歴史

神田 錦町時代 明治18年(1885年) ~明治25年(1892年)

校祖 杉浦重剛

 明治維新の混乱状態も治まり、社会も平静に戻った1885年(明治18年)の頃になると、江戸時代の鎖国政策の間に遅れてしまった文明を取戻す為に、だんだん教育の必要性が重要視されるようになってきました。

 その要求に基づいて、明治18年(1885年)6月、*千頭清臣、谷田部梅吉、松下丈吉の三名が官立学校に入学する者のための予備門を設立しようとして、杉浦重剛(夫人は千頭清臣の令妹)、増島六一郎、宮崎道正などに呼びかけて、神田錦町二丁目二番地に、本学園の前身、東京英語学校を創立しました。
(写真は校祖 杉浦重剛)

 初代校長に、増島六一郎(中央大学の前身英吉利法律学校の初代校長)が就任しました。杉浦重剛はすでに東京大学予備門の校長をしていたからです。

 東京英語学校は東京大学予備門(現在の東京大学教養学部)の入学志望者を標準にし、そこに十分入学できるだけの能力を養成するための教育を行っていたのです。

 中央大学史紀要第13号によると「前身英吉利法律学校がまさしくその全盛期を迎えようとする時期ではあるが、姉妹校(sister schools)-これが仮に東京英語学校のみを指すものとしてもーの模範となるべきことを卒業生に鼓舞する増島…」と表現している。まさに中央大学とは同じ敷地の中、かつ東京英語学校の創立と英吉利法律学校の創立にかかわった増島六一郎を接点とすると中央大学とは関係深いものがあります。

 明治22年(1889年)12月末の調査によると、この当時の東京英語学校生徒数は627名、夜学は414名を数えています。

 進学状況は、第一高等学校(現在の東京大学)405名、東京商業学校(現在の一橋大学)129名、第二高等学校(現在の東北大学)、第三高等学校(現在の京都大学)、海軍兵学校20名でした。
「技術王国 日立をつくった男 創業者小平浪平伝(加藤勝美著)」では「杉浦重剛が経営する東京英語学校(のち日本中学校)に入学した(無試験)。普通科目と英語はここで足りた…」と東京英語学校について記述しています。

 その当時の学校行事は明治19年(1886年)春に北区飛鳥山で春と秋、2回運動会が行われています。明治22年(1889年)には端艇部(ボート部)が誕生し、明治24年(1891年)4月に隅田川で競漕会も行なわれていました。

 余談ですが、杉浦重剛は「梅窓」「天台道士」と号されています。「梅窓」は大正3年より大正9年までの「御進講」時に、それ以外は「天台道士」と使い分けをしていました。

 東京英語学校神田錦町校舎(旧明治義塾(旧三菱商業学校)廃校の跡地利用)は、レンガ造り2階建ておよそ392坪。辰野金吾・坂本復経ほか2名による設計のようです。(日本中学校50年史)

 辰野金吾は東京駅・日本銀行本店・旧日本銀行小樽支店などを設計した大建築家です。当時の神田錦町校舎の現存写真は資料室にはありませんが、辰野が得意とした赤レンガと白い石を帯状のデザインであると思われます。

 この校舎わずか7年、神田大火のため消失しました。校祖杉浦重剛の嘆きは大きく力を落としていたようですが、義兄(千頭清臣)の郷里の有力者佐々木高行侯爵が杉浦の教育に感銘し、校舎再建資金の半額を出資しています。日本中学校の命名者であるとも言われています。

 東京英語学校が創立してから明治25年(1892年)4月に消失してしまうまでのわずか7年間ではありますが横山大観はじめ多くの文化勲章受章者を輩出し、杉浦重剛の教育を通して人を育てる情熱は、多くの偉大な人物を世に送り出し半蔵門の新校舎建築へと引き継がれていきます。


千頭清臣:安政3年(1856年高知県出生)大正5年(1916年)9月10日死去。享年61歳。乾坤社同盟者。日本新聞・日本倶楽部の同士。
西欧一巡の後、第一高等中学・鹿児島造士館・第二高の教授となり、次いで新潟、宮城、鹿児島県の知事を歴任。その後東京日日新聞(現在の毎日新聞)社長となり、貴族院議員に勅選された。当時のナポレオン研究家としても有名であった。

神田錦町:東京英語学校時代の人物群像

横山大観(画家・文化勲章受賞)・菱田春草(画家)・西郷孤月(画家)・鏑木清方(画家・文化勲章受賞)・佐佐木信綱(歌人・文化勲章受賞)・上田敏(詩人)・高山樗牛(作家)・永井荷風(作家・文化勲章受賞)・笹川臨風(文学評論家)・長谷川如是閑(評論家・文化勲章受賞)・鈴木虎雄(文学博士・文化勲章受賞)・朝永三十郎(哲学者。ノーベル賞朝永振一郎の父)・小川琢治(理学博士・ノーベル賞湯川秀樹の父)・塩沢昌貞(早稲田大学学長)・小平浪平(日立製作所創業者)・瀬下清(三菱銀行会長)・永井松三(東京オリンピック事務総長)・牛島謹爾(米国カリフォルニア州開拓者・ポテト王)・荒木貞夫(陸軍大臣・文部大臣)大隈信常(早稲田大学名誉総長)志田鉀太郎(明治大学総長)・塩沢昌貞(早稲田大学第2代総長)

日本中学に改正 半蔵門時代 明治25年(1892年)~大正5年(1916年)

半蔵門時代

 東京英語学校の創立から7年後の明治25年(1892年)4月15日、火災により校舎は消失。新たに当時の麹町区(現在の千代田区)山元町の一角、半蔵門外に二階建て、建坪311坪の校舎を建築し、8月1日東京英語学校は「日本尋常中学校」と改称されました。

 杉浦重剛の「日本人」運動(「日本新聞」雑誌「日本及び日本人」を主宰)は、日本人に進歩的合理的精神を導入することを目的に行われたものであり、日本学園の「日本」という名称もここからきているようです。 初めて制服が制定されたのは明治33年(1900年)3月で、それまでは和服でした。

 この年に卒業した小村寿太郎の長男、欣一は父の後を継ぎ外交官として外務省情報部長、イギリス在勤大使館参事官を歴任、拓務大臣を務めることとなる。また、国士舘の設立にも携わり47歳で亡くなるまで同校の理事を務めています。(国士舘史研究年報第2号)

 この当時の校章は最初、日の出に稲穂の中に日中と図案した金色の天保銭型のものでしたが、ほどなく現在の銀色の鏡「八咫の鏡」の形に改められました。これは明治19年秋、東京英語学校第2回運動会に、時の増島六一郎校長が寄贈した優勝旗の紋章から着想したといわれています。

 明治32年2月6日、勅令で「中学校令」が改正され「日本尋常中学校」は「日本中学校」となり、やがて明治36年に学校は「財団法人」になりました。(「学校法人」になったのは昭和26年)


 本学園1号館を設計された今井兼次は、半蔵門校舎の思い出を次のように語っています。
「校舎はボロボロで古かったが、ここは桜田門から三宅坂の堀端が窓から見えて、これはもう天下一品の校舎の位置でしたね。大変に美しかった。小学校時代は野球ばかりしていて少し不勉強だったね。しかし日本学園へ入ってからは、もっと勉強せねばならないと思い、うんとやった。日本学園へ入らなかったら、こういうことをしなかっただろうな。」と語っています。
 余談ですが、今井兼次の同級生の中濱 清(中濱万次郎のひ孫=3代目)は、日米戦争回避のため日米親善を図るべく帝国ホテルでルーズベルト大統領の特命を帯びて来日したウィラード氏、グルー米国大使、ペリーの孫娘たちを招いての歓迎晩餐会を催し日米友好に努めていました。

半蔵門:日本中学校時代の人物群像

大熊喜邦(国会議事堂設計者のひとり)・葉山万次郎(大阪外語校長・本学園第4代校長)・吉田茂(内閣総理大臣)・塚崎直義(最高裁判事・日弁連会長)・柿内三郎(東大名誉教授・本学園第6代校長)・岩波茂雄(岩波書店創業者・文化勲章受賞)・森田草平(作家)矢野勘治(一高寮歌「嗚呼玉杯」の作詞)・楠 正一(一高寮歌「嗚呼玉杯」の作曲)小坂順造(電源開発総裁・信越化学社長)・管 礼之助(東京電力会長)・沖 巌(早稲田大学理工学部長)・荻野久作(オギノ式産制法創始者)・松山省三(洋画家)・新井 完(洋画家)・平井  澄(三菱石油会長)・呉 文炳(日本大学第4代総長)・牧野虎雄(洋画家)・鈴木千久馬(洋画家)・真道黎明(日本画家)・蜷川睦之助(岐阜大農学部長・本学園第7代校長)・久留島秀三郎(同和鉱業社長・本学園第8代校長)・横田愛三郎(山下汽船社長・本学園第9代校長)・宮沢胤勇(運輸大臣)・加藤勘十(労働大臣)・浅見与七(東京大学名誉教授)・桑田芳蔵(東京大学名誉教授)今井兼次(早稲田大学名誉教授・本学園1号館設計)・小西得郎(プロ野球解説者)・鈴木英雄(小田原市長)

日本中学 淀橋時代  大正5年(1916年)~昭和11年(1936年)

 大正5年9月校舎を新宿の淀橋に移し、同月4日から授業が再開されました。この校舎は当時の東京市外山手線の新宿駅西の比較的閑静なところでした。現在の工学院大学付近といわれています。 学校用地6,590㎡(1,997坪)。

日本中学
地図1:昭和8年文彰堂発行。新大東京全図。近辺には工学院、明治学院、精華高等女学校があります。
2010年10月24日日曜日 梅窓会ブログ広報部会 S44卒 中村さんの記事より転載

 大正11年11月14日、大正天皇即位記念に樟樹の苗が植えられました。それが松原校舎に移転したときに移植された現在の校舎玄関前の4本の大樹です。

 淀橋校舎は大正12年の関東大震災には幸いにも一部破損の程度で済み、翌年の夏休に修理が行われました。 翌大正13年2月13日校祖杉浦重剛が逝去され、2月16日には日本中学校講堂で会葬者1700人による葬儀が行われています。10月には5日間の修学旅行が行われ、長野県中房温泉を拠点として教職員13名、生徒410名が北アルプスの燕岳登山を敢行しています。

 大正14年には旧陸軍省から配属将校が派遣され、軍事教練が始められました。次第に軍靴の足音が高くなり授業内容も大きく変わった時代でした。

 このころの学校生活について東京教育大学名誉教授(医学博士)であった杉 靖三郎は「唱歌の代わりに詩吟、体操の代わりに武道、当時としても一風変わっていた。秋の最大の行事は、松陰神社参拝である。平素から練習しておいた松陰の「山河襟帯」の詩と、「親思う」「身はたとひ」に歌を、松陰先生の命日に、新宿の学校から世田谷の神社まで三里の道を歩いて行って、参拝し、社前で、それを合唱するのである。帰りには、イモ掘りをして帰るのだ。」と述べています。(歴史読本 昭和48年7月号)

 スポーツにおいては、大正15年に行われた全国中等学校射撃大会の第1回、第3回には優勝。その他、全国学生陸上競技大会には恩田春治選手が走り高跳びで、中学新記録及び日本新記録(1m59)を作るなど好成績をあげ、日本中学校の名前が全国に知れ渡たりました。(なお、杉浦重剛の私塾である「称好塾」は大正7年12月に校舎の前に新築されており、その塾生であった早大生の河野一郎、河野謙三の兄弟は大正10年ごろ競走部のマラソン指導に来ていました。)

 昭和3年5月 全国中等学校射撃大会が戸山射撃場で行われ、優勝いたしました。(第1回中等学校陸上競技大会開催)。翌年の昭和4年6月に第1回日本中学校同窓会が催され、約300名が出席して同窓会規約を制定しました。(昭和23年5月日本学園同窓会に、昭和26年6月日本学園梅窓会に改称、現在に至る。)

 昭和6年になると千葉県の海岸において潮干狩りが恒例の学校行事として行われるようになりました。


毎日新聞取締役になった森 正蔵は、靴でなければ通れなかった校舎の板張りの廊下をほう歯のドロ下駄を履いてがたがたと闊歩していたことが知られ、杉浦重剛校長に呼び出されました。当時、規律は厳しく、校長が無言のままで一通の封書を渡されたときに、森は「退学の勧告書」と思い「ハッとした」という。開封してみると「人は誰でも過ちをするが、それを覚えてその過ちを改めることが肝要である。そこに人間としての進歩があるのだ」という意味の文句であった、と森の畏友、岩崎金一郎(日大商学部長)は語っている。このような話は夏目漱石をはじめ数多く残されている。

新宿淀橋校舎
新宿淀橋校舎
大正15年卒業生の記念撮影:池田英雄氏提供

淀橋:日本中学校時代の人物群像

田村太郎(法政大学同窓会副会長)・佐藤義夫(新潮社社長)・丸山千里(丸山ワクチン)・尾崎 陞(判事・弁護士)・岩崎金一郎(日大教授)・中根一夫(日鉄金属工業社長)・森 正蔵(毎日新聞取締役)・入江啓四郎(国際法学者)・佐藤信彦(慶応大学名誉教授)坂本 義(清水建設副社長)・杉靖三郎(医学博士・東京教育大学名誉教授)・鈴木平三郎(三鷹市長・本学園理事長)中西利雄(水彩画家)・石川一代(日本画家)・斉藤義重(洋画家)・笹村良紀(彫刻家・東京藝術大学助教授)・山脇洋二(彫刻家・東京藝術大学教授)・湯沢光行(国民懇話会理事長)・小島喜太郎(本学園理事長代行)・服部親愛(梅窓会名誉会長)・小原勝郎(マナスル登山隊リーダー)

日本中学 松原時代 昭和11年(1936年)~昭和20年(1945年)

 昭和になって、日本は著しい発展を遂げましたが、なかでも東京市(現在の東京都)は東西南北に膨張し、都市計画が始まり、淀橋の日本中学校も校有地の3分の1が削減されることとなり、教育の場として不適当な場所になるとの将来展望から広大な敷地と通学に便利な場所として現在の松原の地に新校舎を建築することとなりました。この場所は元ゴルフ場で7,776坪の長方形の土地。昭和9年に登記を終え、本校出身の今井兼次早稲田大学教授設計、合資会社清水組(現在の清水建設)によって新校舎の建築が始まりました。

 今井兼次は「母校の諸君よ。どうか杉浦重剛先生のこの学校をわが家と思い大切に守護されんことを希う」(母校新校舎小史)とその設計にかけた気持ちを後輩に託しています。

 この校舎は「白いモルタル仕上げの直截なフォルムをもち、人造石ブロック小叩き上げ仕上げによる玄関の背の高い4本の列柱、ガラス張りの階段など、きわめて構成主義的な構成をもった今井兼次の1930年代の代表作」といわれています。(前橋工科大学大学院准教授石川恒夫・中曽根 康)

 日本学園の歴史は、東京英語学校校舎の設計者辰野金吾そして、松原校舎1号館と2人の建築界の巨人により設計された校舎の中で勉強してきたわけであり、また今も松原校舎において勉強を続けているわけです。

松原校舎

 ここに、松原校舎1号館の創建時の写真を掲載します。現在のまわりのたたずまいとは装いが違いますが、1号館の今井兼次にかける思いは、建築をとおして杉浦重剛の「風格」を表現したいという気持がきわめて自然に伝わります。

 生徒、教職員への愛情を込めたこの建物を私たちはいつまでも大切にしたいものです。

 柔道部は昭和10年6月の全国中等学校柔道大会(至剛館主催)において優勝しました。松原時代に向かっての慶事でした。昭和11年10月18日、淀橋から現在の松原の新校舎に勉学の地が定まり、現在に至っています。

 翌昭和12年3月の卒業式には、「大富士仰げる松原台に」で始まる新校歌が発表されました。以前は「富士の峰さやに仰ぎ見て 聳え立ちたる我が校舎…」で始まる曲でした。

 昭和12年4月には第1回文化勲章受章者に佐佐木信綱、横山大観の両氏(いずれも日本学園の前身東京英語学校出身)選ばれました。

 昭和13年の夏には水泳プール(日本水上連盟公認25m×15m)が建設され、体育の向上に役立てられることとなりました。戦後オリンピックで活躍した「フジヤマの飛び魚」とよばれ一世を風靡した古橋広之進(日大)もこのプールにきて練習を重ねました。この年は卒業生である新潮社社長佐藤義男から274冊、岩波重雄から474冊の図書が寄贈され生徒の文化教養の充実に大変役立ちました。また、英語の充実を図るため、戦後「100万人の英語」のラジオ放送で英語会話の普及に貢献したジェ-ムス・ハリス氏を講師として招聘しています。

 昭和14年に入ると戦争の激化に伴い徐々に教職員の応召や勤労動員が始まり、終戦まで実質的には殆んど教育が行われていませんでした。日本中学校この時代の勤労動員と生徒の様子は昭和21年、22年卒業生が後世に伝えようと合同で作成した「日本中学校学徒勤労報国隊の記録」(平成11年発行)に生々しく詳細に報告されています。

 昭和15年になり、今も行われている「景仰会」について会則が定められています。「杉浦重剛先生の遺業を尊重し、先生の精神を体得し、以て本校の伝統を永遠に擁護するを目的とす。」この時代は毎月1回、適当な日時に行われていたようで、現在では命日である2月13日前後に「杉浦先生を敬い、慕う」学校行事として生徒たちは関係者から「杉浦先生にまつわる講話」を聞きながら遺徳をしのぶ会として連綿と続いています。


 昭和15年に卒業した岡部冬彦(漫画家:週刊誌に「アッチャン」を長期連載)は、当時の授業の思い出を次のように語っています。
「寺崎留吉というオッカナイ博物(今の生物)の先生の授業で小豆の話に触れ「小豆を知らん人はおらんだろう。」といったら、「ボク知りません」と答えた生徒がいた。カンカンになった先生その生徒の頭をポカポカ喰らわしてから、「君!クニどこです!」「ボククニ蒙古ヨ」驚いて謝ったが、この蒙古の留学生のおかげで蒙古に小豆のないことを知ったんだ。」

 昭和20年に卒業した寺中理明(東大農学部教授)は、学校の生活について、「当時の恵まれなかった環境の中で、先生は我々の教育を一生懸命やってくださり運が良かった。」「辛かったことは軍事教練。今から思えば戦争で友達が何も知らないでお国のために身を粉にして尽くすという気持ちで進んで特攻隊に行ったりして沢山の友達が亡くなったのは悲しいですねー。」と語っています。

松原:日本中学校時代の人物群像

井上 實(東京銀行頭取)・千葉一男(王子製紙社長)・岡部冬彦(漫画家)・岡部一彦(画家)・寺中理明(東大農学部教授)・清水啓治(中央建設名誉会長)・細川春雄(新京成電鉄社長)・三好二郎(東京芸術大学名誉教授)・内田萬次(国保桧原村診療所医院長)・岡村邦輔(日大名誉教授)・藤島 昭(最高裁判事)・佐川弘(本学園理事長)・佐藤圀夫(日本画家)・鈴木誠一(エステー化学会長)・生方良雄(小田急電鉄役員)・鈴木明雄(エステー化学社長)・村上清(年金問題評論家)・坂本百大(日大文理学部教授・学園理事)・三好達(最高裁判所長官)・吉村睦人(開成高校教頭・青稜高校校長・歌人)・太田安雄(東京医科大教授)

日本学園中学校・高等学校時代 昭和21年(1946年)~昭和30年(1955年)

学校・高等学校時代

 昭和21年、敗戦により葉山万次郎校長〈明治28年卒:司馬遼太郎がその人柄を小説「世に棲む日々」の中で紹介しています〉から森田実(明治29年卒)がその任を代行。翌昭和22年4月、柿内三郎(明治32年卒)が校長に就任しました。戦争時の混乱から復興に向けて、運動場の舗装・図書館の増設・教室の改善等整備が行われ、現在の校歌「いざや学ばん」もこの頃発表されました。

 昭和23年4月新制高等学校の発足とともに、校名を日本学園と改め、日本学園中学校・日本学園高等学校と称することとなり、学校教員と父兄有志との教育懇談会が毎月1回行われ、学校と家庭の密接な協力を得て学校教育を進めていきました。

 翌24年1月には時代に先駆けて教員の週5日制が実施されています。この年には新聞部による「倶進(ともに進む、という意)」が発刊されています。8月に入りマッカーサー杯争奪戦全国軟式式野球大会において纐纈浩三吉川道也組が優勝するという快挙で学園はにぎわいました。

 昭和25年創立60年の式典(6月23日)に参加予定の時の総理大臣吉田茂が予定を繰り上げ6月20日に来校し、後輩達に激励の講話を行っています。3ヶ月後のサンフランシスコにおける対日講和条約調印を控えていたからです。毎日新聞は「母校なつかし 二つの集い 吉田さんもみくちゃ 50余年ぶり日本学園へ」と大きな見出して紹介しています。(資料室には学生時代の成績表が保管されています。)また、この年には同窓会を「日本学園梅窓会」と改めました。

 昭和26年3月6日、東京都知事名で兼ねて申請していた「財団法人日本学園」から現在の「学校法人日本学園」への組織変更の認可がなされています。

 昭和29年になると生徒会が結成され、初代会長に田尻勝紀が選挙で選ばれました。(生徒会館が建設されたのは、昭和32年)

 昭和30年4月、杉浦重剛生誕100年祭が行われ、小坂順三(信濃毎日社長・信越化学社長・電源開発公社総裁)祭典委員長のもと自由党総裁緒方竹虎(杉浦重剛の私塾「称好塾」関係)が記念講演を行いました。この生誕100年の記念行事として現在の2号館が建設されました。
 設計顧問には1号館の設計をした今井兼次があたり、化学教室、生物教室、物理教室などが作られました。また、生徒手帳が作成されたのもこの年からです。
 小野喬先生がバルセロナでの国際体操競技大会で第2位、毎日新聞・NHK共催の音楽コンクール声楽部門で友竹正則先生が第2位と教員の活躍も目立った年でもありました。

 昭和30年度の大学進学状況
   ・国公立大学  : 東大5、東工大2、北大1、東京教育大1、都立大1、横浜市立大1、東京農工大3
   ・私立大学    :早稲田大37、慶応大6、明治大13、立教大9、法政大4、中央大27、青山5以下略。


6月20日に来校した吉田茂首相を報じる毎日新聞から(抜粋)

白服の首相は生徒達が緊張した目で見上げる講堂の壇上から「なにせ五十何年も前のことですから…」と古い記憶をたどりながら、同校を創立した杉浦重剛校長の人格をしたって明治27年から約1年、当時半蔵門にあった学校で中学四,五年時代を過ごしたころを追憶してから「軍備を持たない日本を再建するには外交のカンが唯一のものであります。そのカンというものは外国に対する深い知識によって初めて生じるのであり、若い諸君がこのカンを体得した時にかつての日本以上に優れた国ができるのです。」と判り易くじゅんじゅんと外交立国論を一くさり。約廿分の講演ののち1年生の大ぜいにもみくちゃにされる歓送を受け大にこにこで引き揚げた。(略)

日本学園中学校・高等学校時代(昭和24年から昭和30年)の人物群像

藤井健(三井住友信託特別顧問)・南方 康(東京大学教授)・山口五郎(尺八演奏者・人間国宝)・長谷川良二(本学園監事)・米田利民(住友セメント監査役)・甘利俊一(東京大学工学部教授)・柏原啓一(東北大学文学部教授)・小林大修(椿山荘取締役)・三枝洋一(本学園監事)・堀内優憲(学園理事)・長尾忠一(神奈川中央交通顧問)・本林理郎(日本IBM副社長)・田澤 元(大成建設設計部長)・田尻勝紀(生徒会初代会長)

日本学園中学校・高等学校時代 昭和31年(1956年)~昭和41年(1966年)

 昭和31年の校祖杉浦重剛景仰会に農林大臣の河野一郎(河野洋平の父)・元法務大臣の風見章が記念講演を行っています。(二人とも杉浦重剛の称好塾生)

 昭和32年にはラグビー部が東京代表として甲府で行われた関東大会に出場し活躍しています。

 昭和33年5月5日広島で「原爆の子」の像の除幕式が行われ、生徒会が呼びかけて集めた募金もその「基金」の一部となりました。

 昭和34年に文化祭と体育祭を、一つにまとめ、学園祭としました。
 60年安保闘争では、学園内で論議が交わされ生徒の学外行動が新聞に掲載されるなど学内は騒然たる状況が続きました。
 秋の学園祭ではコーラス部の歌劇「カルメン」が東京シンフォニカ・オーケストラの賛助出演を得て行われ、超高校レベルと絶賛され大きな話題となりました。

 昭和36年7代目校長蜷川睦之助先生逝去。久留島秀三郎(同和鉱業社長)が7代目校長に就任しました。

 翌昭和37年度からは柔道が正課に採用され、再び学園内に柔道着姿の生徒が見られるようになりました。6月に行われた庭球部関東高等学校軟式庭球大会では東京都予選で優勝しています。

 昭和38年度の入学応募者は2348名、第二次募集も458名の応募者を数え、生徒数の増に応じて翌年 昭和39年1号館3階の西端に2教室を増設しました。

 昭和40年8月入学生が少なくなった中学校の生徒募集を一時停止しました。10月には創立80周年の記念式典が世田谷区民会館において行われています。

 昭和41年3月、大学進学では、立教大学への入学者は日本一であったことが週刊誌の紙上に掲載されていました。昭和41年度卒業生の中には やがて全日空の国際線パイロット2名やNHKアナウンサー、紀伊國屋書店社長など多くの人材を出しています。


昭和41年度大学入試合格状況

東京農工大2、東京教育大(現在の筑波大)1、埼玉大1、東京芸術大1、防衛大学校1、横浜市立大1、早稲田大16、慶応大12、明治大35、青山学院大19、立教大29、中央大41、法政大22、上智大1、東京理科大1、日大33、東海大20、駒沢大8、専修大8、明治学院大32、成蹊大9、学習院大6、東洋大6、国際キリスト大(ICU)、芝浦工大2、亜細亜大15、国学院大6、成城大1、武蔵工業大3、武蔵野美術大3、多摩美術大1、工学院大1 etc.

日本学園中学校・高等学校時代(昭和31年から昭和41年)の人物群像

関 英行(日本学校史調査研究所代表)・野島 孝夫(青山学院大ラグビー部)・増村昭策(日本ラグビー協会・帝京大学教授・本学園教諭)・榎本龍幸(JR東日本東京地域本社長・日本電設工業会長・日本学園理事長)・橋本 清(日本山岳会副会長・エベレスト登頂・本学園理事)・小川和夫(全日本食品取締役副会長)・坂本延夫(独協大教授)・谷川平夫(読売新聞論説副委員長・本学園校長)・宮原洋一(梅窓会副会長)・星野勝司(座間市長)・君塚晴信(全日空役員)・片倉 洋(八千代銀行会長)・高橋洋介(内閣府審議官)・板谷直美(NHKアナウンサー)・高井昌史(紀伊國屋書店社長)・竹添秀夫(東京工業大学教授)

日本学園中学校・高等学校時代 昭和42年(1967年)~昭和52年(1977年)

 昭和44年の1年生は4クラス189名の編成で出発しています。全校生徒790名の編成でした。4月には第9代校長に横田愛三郎が理事長を兼ねて就任しました。

 昭和45年も1年生は4クラス177名でスタートしました。このような入学者の減少から、経営上の困難が生じ、校地一部売却の動きが出ました。しかし、卒業生有志が懸命に奔走した結果、売却は中止となり、今日に至る校地が保全されました。
 5月、理事長に鈴木平三郎(元三鷹市長)第10代校長に鈴木一郎の新しい学園体制が整い新1年生240名を加え、569名、校長以下25名による再建が始まりました。ここに、同窓中心(梅窓会役員も参加)に財政面を含めて同窓だけでなく多くの人々の賛同を得て再建に協力するための「日本学園後援会」が発足しています。(平成10年12月解散)

 昭和47年には1,000名を超える応募者があり、新入生542名、総勢965名、教師の平均年齢34歳という教育体制となり今後の発展に期待が高まりました。生徒会活動が活発になり、翌年、昭和48年になると「制服自由化」が生徒から提案され6月から実施されました。

 翌、昭和49年には文系・理科系コースが廃止され、選択制が採用されました。また、この年からマラソン大会が行われ以後恒例行事となりました。ちなみにこの年の生徒総数は1430名に達しています。生徒用食堂が開設されたのもこのころです。

 昭和50年、第17回関東高等学校フェンシング選手権大会において団体優勝し、個人戦でも高島選手が優勝しています。ちなみに昭和57年に卒業した吉沢光春氏はアジア大会や世界選手権大会に出場しています。


国際放送「NHKラジオ日本」の英語番組専門アナウンサーである松田和司(昭和42年卒)は国際基督教大学に進学し途中退学し「グルー基金」を得てアメリカにわたるのだが、当時の日本学園の思い出として「生徒会活動に夢中になり、支部内の他校生徒と交流したりしているうちに、都立高校入試に失敗した挫折感も一掃されました」と語っている。

日本学園中学校・高等学校時代(昭和42年から昭和53年)の人物群像

松田和司(NHK国際局アナウンサー)・高田文雄(放送作家)・三笑亭夢太朗(落語協会役員)・松崎秀樹(浦安市長)・野永信夫(赤坂璃宮相談役)・太川陽介(俳優)・渡邊廣人(シドニーパラリンピック乗馬)

日本学園中学校・高等学校時代 昭和53年(1978年)~昭和62年(1987年)

 昭和54年4月に鈴木一郎校長の辞意に伴い、後任の校長として、前桐朋学園児玉実雄校長を第11代校長に迎えています。10月には校祖杉浦重剛はじめ校友の絵画・彫刻および学園の歴史に関する記録等資料整備を目的に資料室整備委員会が発足し、整備を進めていました。一段落した現在も学校は梅窓会の協力を得ながら先人卒業生の足跡と現在活躍している卒業生資料の収集を進めています。
 また、平成23年2月の校祖杉浦重剛景仰会の前後には資料室を開放し本学出身の絵画や資料を公開し先人先輩たちの偉業を再確認し、今後の励みになるよう情操教育の場として提供しています。

 昭和56年にはクラブ活動の活躍が特筆されます。
 甲子園を目指した野球部は西東京大会決勝で国学院久我山高校に敗れたものの準優勝と大健闘いたしました。 フェンシング部も全国選手権大会東京都予選会で優勝。滋賀国体においては東京都代表3名中2名が本学園の生徒でした 。陸上競技部は、福田匡恭が東京都私学選手権大会における走り高跳びで1m95を跳んで優勝。映画研究部の作品「One's Youth」(瀬良周治2年生脚本・監督)が81年度日本映像フェスティバルの高校部門で優秀作品賞に、美術部の河村和彦(2年生)が東京私立中学高等学校美術展で優秀賞を受賞するなどクラブ活動は輝かしい成果をあげています。

 昭和58年1月に百周年記念「新体育館」が竣工(設計:早稲田大学池原教授、清水建設施工)し、9月には旧雨天体操場を改築した生徒用の食堂が開設されました。

 昭和59年2月に鈴木平三郎理事長(元三鷹市長)逝去に伴い、小島喜太郎が理事長代行となりました。この年の入学試験の応募者は1791名と前年を403名上回る大量受験がありました。入学者は641名となり下のグラウンドに2階建て校舎(4号館)が建設されました。
 スポーツでは東京都高校野球春季大会予選の決勝戦が行われ、日大一高と対戦し1-6で負けましたが、強豪チーム を連覇しての準優勝は快挙でした。また、夏の西東京大会においては準決勝で法政一高に5-2で敗れました。あと2勝で甲子園でした。

 昭和60年11月、創立100周年記念式典を挙行、「100周年記念学園歌」が篠 清弘(昭和37年卒作詞、いずみたく作曲)により披露され、現在も入学・卒業など記念行事に歌われ学生歌として第2校歌としても親しく歌い続けられています。 同時に杉浦重剛先生立像も創立100周年記念を祝って作成されました。
作成者は小畠広志(昭和29年卒=平櫛田中受賞)

 昭和62年5月音楽室の防音改修が施され、音感教育の充実を図っています。(日本板硝子施工)

日本学園中学校・高等学校時代 平成元年(1989年)~平成24年(2012年)

 昭和64年(1989年)1月7日「天皇陛下崩御」のニュースが全世界に報道されました。2月24日の大喪の礼の日NHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』が、各地の様子を放映しました。その中に沖縄からの表情を昭和41年卒の板谷直美(NHKアナウンサー)が伝えていました。1月8日元号が「平成」と改まり激動の昭和時代が終りました。元号が改まった5月中国国家教育委員会訪日団6名が来校し、教職員との交流が行われました。
 この年は水野重均(S48年卒)、磯崎喜則(S48年卒)両先生による情報教育が国の教育政策に先駆けて実施された年でもありました。情報教育が正式に東京都をはじめ多くの自治体の学校教育に正式にカリキュラムとして登場したのは実に14年後の平成15年度の新入生からです。両先生は情報教育の先駆者として各地に講演や指導に赴き情報社会の発展に大きく寄与することとなる記念すべき年でした。
 また、1号館床の改修を全面改修をいたしました。改修前は土足で教室の出入りができたのですが、土足による泥や汚れから環境美化を図るためにPタイル敷きとました。

平成2年(1990年)
 11月に化学実験室の改造が大掛かりに行われました。薬品保管の万全を図るとともに実験作業の効率化と安全性を考慮したのです。

平成3年(1991年)
 茶道には表千家,裏千家,武者小路家など,現在200を越える流派が存在するといいます。この世界に平成3年卒北見宗幸(幸輝)が裏千家理事として活躍されています。

 平成4年(1992年)は教員数85名(講師33名含む)生徒数年度末1,165名で生徒数が非常に多く増えています。文系志望者に限定して「基礎力の点検、入試に対応できる応用力をつける」ことを目的に学内に進学指導会(定員40名)を設置、河井塾、一橋学院、代々木ゼミナール、市進、早稲田予備校等の現任、経験者を招いて学力指導を行っています。

 平成5年(1993年)5月「長期間募集停止中の学校の再開に係る取り扱い基準及び過去に中学校を廃止した法人の中学校設置基準について」という東京都総務局学事部の通知で、中学再開の時期は平成8年4月1日まで、平成7年3月31日までに認可を取得することが示されました。この東京都の指示に基づき、日本学園は中学校再開等調査委員会を設置し、検討を加えてきました。

平成6年(1994年)
 9月24日、中学校再開等調査委員会の答申を受け、理事会は平成8年の中学校再開に向けて生徒募集、校舎建設、カリキュラムの作成等の検討を着手しました。

平成7年(1994年)
 解体された講堂・会議室の代替として北側にプレハブ校舎を建設し、新校舎完成後に家庭科教室等に使用することとなりました。

平成8年(1995年)
 4月1日待望の中学校が再開されました。中学棟は3階建、10教室特別教室2室、講堂。東急建設施工、アルク総合設計(S34卒,三上忠設計部長)によるものでした。日能研偏差値格付け40でスタートしています。

平成14年(2002年)
 創立120周年記念事業として、平成18年6月着工、平成19年12月竣工の予定で新校舎建築に向けて検討を始めました。

平成17年(2005年)
 4月和田英昭事務長(S37年卒)、10月谷川平夫校長(S34年卒)が就任し、学園改革が始動しました。

平成18年(2006年)
 7月に榎本龍幸理事長(S32年卒)が就任し、理事長代理には堀内優憲理事(S29年卒)が就任しています。

平成19年(2007年)
 谷川校長はこの年を「にちがく元年」と位置づけ、大学合格実績を上げるため中学に「難関大学コース」、高等学校には「特別進学コース」を設置し、進学校として進むことの方針を明確にしました。創造力と発信力を併せ持つ人材教育としての「創発学」をスタートしました。
 麻疹による学校閉鎖(4月27日~5月6日まで、授業日数で実質3日間の休校)もあり、他の学校ではかなり感染者が多かったのですが、学校側の的確な初期の措置で大きく広がることはありませんでした。

平成20年(2008年)
 柔道の講道学舎の塾生を中学校・高等学校共に受け入れ始めました。

平成21年(2009年)
 1号館が国の有形登録文化財になりました。
 受験用英語からの脱却を目指す新英語教育「リンクイン」がスタートしました。

平成22年(2010年)
 2008年5月の中国四川省中部での大地震(M7.9~8.0)や2010年2月チリ中部の大地震(M8.8)など大きな地震が頻繁に起こり学校や多くの建物が損壊している状況を踏まえて国や東京都も校舎(昭和56年以前の建物が対象)の耐震化を進めることとして補助金制度を設けました。これを受けて学園では、この機会を逃さず1号館の耐震工事に着手したのです。清水建設による施工で、2010年8月31日に工事が終了しました。資金の捻出として学園債の発行を学園OB,保護者そして教職員に限定して募集し、目標額を上回る1億820万円が集まりました。OB,保護者、教職員の熱意が表れた瞬間でもありました。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の前年でした。
 この年のクラブ活動ではバスケット部がはじめて関東大会出場しました。
 11月29日創発学の一環授業として、OBによる「キャリア・エデュケーション」名付けて「あつき恵教室」が今年も開催されれました。榎本理事長によるJR東日本の取り組んでいる環境対策や現場での車両見学、高井紀伊國屋書店社長による学園でのご自身の体験を通して自分を磨くことの大切さや紀伊國屋書店の世界展開、電子書籍について膝を交えての講話が行われました。
 12月21日の読売新聞には、土居先生と吹奏楽部高校生らによる町田市小山田高齢者在宅サービスセンターでの慰問演奏が紹介されました。この取組は4年前から行われており、この日は70人の高齢者を前にクラシックから童謡や懐メロまで15曲を熱演しました。

平成23年(2011年)
 1月5日「朝日新聞」全国版朝刊が、映画・舞台・テレビに大活躍の斉藤工(H12年卒)氏を紹介しました。

斉藤工氏主演のテレビドラマ「最上の命医」

 斎藤さんは、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」の脇役で登場し、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で京極高次役、そしてテレビ東京系の「最上の命医」で主人公の小児外科医を演じました。
写真は朝日新聞に1P全面に掲載された広告です。

 月刊美術3月号には、「こんな絵を描く人が先生だったら生徒たちは幸せかもしれない」という見出しで小飯塚祐八教諭(平成6年卒)の紹介がされていました。「作品に一貫して描かれるのは家族。生活からにじみ出る情感が色濃く伝わるその画面は、一見時代遅れに見えるが、遠い昔に忘れてしまったあたたかい記憶を、つかのま思い出させる。」と編集氏は結んでいます。

平成24年3月(2012年)
 明治大学との「高大連携協定」が調印されました。