ふらっとOBが後輩の激励?に体育館を訪れる。土砂降りの雨の中を「そうだ!にちがくにいこう!」のノリでやってきて練習に混ざるあの子たち。。滞在時間3分、挨拶だけをして帰った金髪の青年。ぼそり「暇だったんで」という3年生。
在学(部)中は一端の大人気取りで吠えていても、所詮は親のスネかじりで井の中の蛙。「やるべきことやってから自分を主張しろ!」と何度言ったことか。卒業してみて責任を背負わされて漸く自分の甘さと大人が言ってたことの意味に気づく者が大半だろう。斯く云う私もそうだった。だから〝うるせぇな~、うざってぇな~〟って思うモノには傾聴の価値あり。
先日、ふと思い立って学生の時に住んでいた町を訪れた。久しぶりに降りた駅は昔の面影がなくキョロキョロするほど。町も変わっていて何だかオノボリさん状態。こんなんじゃない!とカルチャーショックの中、足繁く通ったオアシスに向かう。変わらぬそこはジャズが流れる小さくて窮屈でいて、でも居心地のよい隠れ家のようなお店だった。看板メニューの「丼スパ」とコーヒーに舌鼓を打ち、哀愁あるジャズに心を和ませたのはもうかれこれ25年以上前のこと。ではしばし思い出に陶酔と思いきやまだ開店前。残念!斬り!
僅か1年だったが住んでいたアパートに行ってみた。もう誰も住んでなく雨戸が閉まり、ガスや電気のメーターが外され、廃墟のよう。隣接していた大家さんの家もなく、別の家が建っていた。来なければよかった、見なければよかったとさみしい思いでそこを後にした。 ……思い出は美しすぎて それは悲しいほどに もう二度と手の届かない
ちょっとセンチメンタルな気持ちのまま過去へのタイムトリップは続く。次に20歳の時に住んでいた町にも行ってみた。田舎から上京し、初めて一人暮らしをしたその町は第二の故郷といってもいい。脇目も振らず4年間住んだアパートへと向かう。
俺の城が見えてきた。もう築40年以上経ってたから慎ましく迎えてくれた。その城は1Kで39000円也。友達の溜まり場でバイトから帰ってくると誰かしら居て「おかえり」と迎えてくれた。鍵を掛ける習慣がなかったので誰もが自由に出入りした。朝起きたら友人が隣で寝ていたことも。そう書くと男所帯で汚い部屋を想像するかもしれないが、いつも掃除をし、きれいにしていたので皆、それをわきまえて使ってくれた。大家さんに褒められるほど城を大事にした。
茅ヶ崎に住んでいた友達がSRに乗っていて、夜中に連れ出されることもしばしば。宗教の勧誘もよく来て、遊び心と興味が恐怖に変わったこともある。一升瓶を前にバイト仲間と語り合ったこともある。金がなくかつかつの生活を強いられた貧乏学生だったものの中身のぎゅっと詰まった時間だった。
青春の面影を遺した俺の城の健在にほっとするも、もうこない方がいいのかぁと天邪鬼な感情が首をもたげる。世の中、無常だからな。
部員がやがてにちがくを卒業し、それぞれの進路や社会と正対する。ある意味自由を手にし、好きなことをやりたい放題。自己責任の範疇で人生を謳歌する。でも何かの拍子に〝ちょっとガッコ、行ってみようかな〟という気分でも帰る場所があるって大切。心の寄辺があるっていい。でも童心に戻るはずが〝あれ?何かちがう〟っていう違和感に変わることもある。理性で分かっていても感情がついて行かない。あぁ「無常」で片付けたくない。それが大人になるって事だよ、なんて分かったような面して嘯かれたらたまらない。だから「不易流行」っていう言葉に救いを求む。無理矢理に「温故知新」の精神にしないと身が持たない。過去を振り返ることは時に残酷。
受験シーズンもそろそろ落ち着いて、まもなく卒業シーズン到来。世の中がどんなに変わっても多分、にちがくと布施先生は「不易」でありましょう。部員が大人びてふらっと遊びに来るのはいつの日やら。先の話をして鬼に笑われるだろうが、部員が心の故郷にちがくに戻ってきたら〝お帰りなさい〟と心の中で呟き、卒業するときは〝行ってらっしゃい〟と大きな声で手を振りませう。
私の母校↓
学校近くの浜 毎日のようにいった
彼方に見えるは東京湾観音