夏期講習で、久しぶりに1年生の古典の講座を担当することになりました。コロナ感染症の拡大に伴い、3密を避けるため1教室定員30名までと決められていたのですが、応募の多い1年生の講習などは1講座では足りず、もう1講座補充するため急遽ピンチヒッターとして担当することになったのです。おかげで、古典の授業について改めて考え直す機会を得ることができました。
まず、感じるのは高校1年生の授業で教えることの多さです。例えば、高校1年の今の時期に教える事項は、基本的な古語、用言の活用の種類と活用形、音便、副詞の呼応、それに付随してくる助動詞・助詞等々…。当たり前ですが、教師が教える事項が多いと言うことは、生徒の側は理解し、習得しなければならない事項が多いということですから、古典2単位の授業でこれらを習得するためには、生徒も教師も相当な努力を必要としているということです。
数学や英語などの教科は、中学校卒業時点で身につけた実力の差がどうしても出てしまいますが、古典は高校からがスタート。だから「力の差は気にしないで、これからが勝負だよ。」と頑張らせているのですが、それも2学期の終わり頃になると「古典を避けるために理系へ」などと理由にならない理由で進路選択をする生徒が出てくるのは、ここにその一因があったかと思ってしまいます。
この入門期、古典は「語学」と割り切って、とにかく「覚える」ことが肝心です。覚え、理解したことを総動員して文法の演習問題を解いているうちに、「I LOVE 古文」とノートに書いてくるようなそんな生徒も出てきます。そうすれば、また次の頂きが見えてくるのではないでしょうか。
古典を古典として親しむために高校の夏期休暇中に、1年は『徒然草』、2年は『枕草子』を1冊ずつ、細かい文法にこだわらず自分の力で通読して、教科書や問題集に採用されていない章段まで読んでみることが理想でしょう。それこそ古典の森の中をひとりで分け入るスリルを味わいつつ、己の決断力が試される冒険です。 そして、完璧でなくとも読み終えたあかつきには、その古典が自分のものとなったことを実感するのではないでしょうか。
例年になく長い夏休みを経験して、金木犀の香りの中に生徒達の成長と時の過ぎ去る早さ感じる時、「枕草子」(第227段)「加茂へ参る道に」の中で引用される古歌を思い出します。
昨日こそ 早苗取りしかいつの間に 稲葉そよぎて 秋風の吹く
(つい昨日、田植えをしたばかりだと思っていたのに、いつのまにか稲葉をそよがせて秋風が吹く季節になったんだなあ)