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職員室リレートーク

「Potentiality 可能性・底力・潜在」布施先生(高1担任・保健体育科)

投稿日2024/11/28

できないからやらないのか、やらないからできないのか
できるからやるのか、やるからできるのか
できないけれどやるのか、やらなくてもできるのか
できるけどやらないのか、やってもできないのか

 

最近の体育の授業で思うことがあった。

情報社会・SNS・ネット・YouTube・X・インスタ・TikTokなどと、言われるように発信者が大量にいて、観る人も大量にいて、ネットの世界が広がっている時代。

先日、体育の時間に「どうせできないからやりたくない」という生徒がいた。

 これは、マットの授業時間のできことだ。この時間は、ハンドスプリングや倒立、バク転など、苦手な人は恐怖を伴う種目や、比較的難易度の低い、前転、後転などを練習する授業である。体育の授業だが、ICT機器を存分に利用し、この時間は、自身の姿を友人に撮影してもらい、客観的に見て、お手本の動画と比較しながら課題点や改善点を思考・判断することがテーマになる。
 練習方法を調べ、協力して行うのもありだ。私は難易度が高い練習やできないという生徒の相談に、応答するのが仕事である。しかし、基本は自身で構築していくのが狙いである。

 

 しかし「どうせできないからやりたくない」と言うのだ。気持ちはわからなくもないが困ったな。
「…仕方ないね、じゃあそこで座って見ていてね」と言うのか?それは配慮か?甘えか?
それとも「そんなこと言ってないでやれ」と言ったらどうだろうか?それは強制か?自律か?

 

 多様性と言われる時代で、強制的にやらせることはナンセンスとも言われることがある。もちろん私も、嫌がる相手に無理やり何かをさせることで得られるものはないと思う…。だが、それと同時に、未知への接触を毛嫌いする人も増えたのではないだろうか。

 学校現場では、強制か、自主性か、嫌でもやらせるか否かで苦慮している先生方も多いのではないだろうか。自主性と言いつつも、強制させて、これは矛盾では?と言った話は他の学校の先生方ともよく討論する。

 

 ここからは、私の想像の話。
 近年、ネットの世界で様々な人が発信するものを、“観る側”にいる人は多いと思う。それは、映像の中で、自分ではない人が何かをやる、すごいことやおもしろいこと、変なことであり、自分のことではない。自分が実際にやることはできないと感じるものも観る。「そう、これは、この人だからできること」といった刷り込みだ。自分自身にはできないと無意識の物差しで悟っているのではないだろうか?特に経験が浅く、多感で思春期な中高生だと…。

 そうすると、「どうせできないから、やりたくないものはやらなくてよい」と誤認する人が生まれてしまうのでは?もちろん、心や身体が壊れるまでやれとか、嫌でもやれよとか極端なことを言いたいわけではない。

 私が懸念するのは、“未知への取り組みに対する抵抗”である。

 

 1年前からバカ真面目に筋トレをしており、自身の最重量記録が上昇する中で、定期的に未知な重さへ挑戦していくわけだ。そうすると、未知な重さへ挑戦する度に心理は様々である。

 

「よっしゃ!絶対上げたる!できる!できる!」
と思っているときは上がる。(もちろん絶対に上がるわけではないが。)

「無理そう、できない…、きついよなぁ」
と思っているとやはり上がらない。

バカみたいな話に聞こえるかもしれないが、案外こんな話ではないだろうか?

 

だから私は
「できなくてもいいよ、どうやったらできるか考えないと。動画撮ってやるよ。見比べてみようぜ。」
と言い、できないと言っている生徒にその場でやらせた。

 

できないからやらないのではなく
やりたくないからやらないのではなく

できても、できなくても、“やらないと” 自分のことが見えないのだ。

だから、できなくても恥ずかしくないし、考えて、考えて、やって、とことんやって、できるよう努める。
それが、勉強も部活も仕事も自分をよく知ることになり、成長・向上させるのだ。
そういった「心」と「思考」を育てるのが教育現場の務めであれば、素晴らしいことでしょう。

一人ひとり多様であり、可能性は無限なのだから。

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