2019年4月3日(水)
東横INN岐阜…(30分)…岐阜公園・散策…(40分)…岐阜城・資料館・散策…山頂駅―(金華山ロープウェイ)―山麓駅…岐阜公演博物館前―(岐阜バス)―名鉄岐阜駅―(名古屋鉄道)―新清洲駅…(15分)…清洲城・散策…(15分)…清洲駅―(東海道本線)―名古屋駅―(東海道本線)―豊橋駅―(東海道本線)―浜松駅―(東海道本線)―静岡駅―(東海道本線)―熱海駅―(東海道本線)―横浜駅・解散
本日は、金華山岐阜城へ行きました。いつもムーライトながらや東海道本線新快速で岐阜駅へ来ると、車窓からよく見える山城です。鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政が、金華山の山頂に稲葉山城を建設したのが、岐阜城の始まりだと言われています。戦国時代には、油売りの行商から国盗りに成功した斎藤道三の居城でした。1567年、織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定し、地名を井の口から岐阜に改め、天下統一の本拠地となりました。関ヶ原の戦い以降、廃城となっていました。現在の城は、1956年に再建されたものです。私たちは、朝早くに岐阜公園に着きました。ロープウェイの始発まで時間がありましたので、織田信長居館跡や山内一豊と千代の石碑などを見学しました。金華山を見上げて、このくらいなら直ぐに登れると思い、馬の背登山道から登りました。思ったより険しい岩の急登が続きました。金華山山頂への登山道が4つあるのだが、結構険しいルートを選んだようです。岐阜城天守閣の前にたどり着くと、部員たちが疲れ果て、「織田信長たちは、この山道をわらじで登ったのかよ。ありえねんぇ。」とか言って、ベンチにぐったり座り込みました。岐阜城や岐阜城資料館で織田信長や斎藤道三の資料を見学しました。岐阜の人々にとっては、金華山岐阜城が街のシンボルの様です。天守閣から岐阜の街と濃尾平野の絶景が見渡せました。私たちは、二の丸門や天下第一の門をめぐり、金華山ロープウェイに乗って下りました。部員たちがこれ以上歩けないみたいだったので、バスで名鉄岐阜駅に戻りました。
次に名古屋鉄道特急列車に乗って、清洲城に行きました。1478年、守護所が清州に移転し、清州が尾張国の政治・経済・司法の中心として繁栄しました。1560年、桶狭間の戦いに勝利した織田信長は、清州から天下統一の第一歩を踏み出したとされています。今ある清洲城は、様々な資料をもとに平成元年に再建されたものです。私たちは、清州公園の桜を眺めてから、五条川にかかる大手橋を渡り、清洲城天守閣を見学しました。中には、戦国時代の尾張国と織田信長に関する資料が詳しく紹介されていました。私たちは、岐阜や清州では、織田信長や斎藤道三が凄く親しまれていることを実感しました。鎧兜、刀剣や茶道具などを見学した後、清州駅から東海道本線を乗り継ぎ東京へ帰りました。今回の春期合宿は、全体的に歴史の勉強となりました。
東京に帰ると、織田信長が戦国時代に何を考えて行動していたのか、江戸時代に作られた逸話や軍記物に頼らず、織田信長が直接関わった史料から再検討しようという番組が放送されていました。戦国時代の武将たちも、どの史料を重視するかにより、ずいぶんと解釈が変わるものだなと感じました。
高3D リョー 名古屋鉄道
名古屋鉄道株式会社は、愛知県・岐阜県を基盤とする大手私鉄である。通称、名鉄。民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業です。本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近鉄・東武に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにもおよぶ路線網、275駅を擁する。名鉄は「ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。」をコーポレートスローガンにしている。
高2D トミー 清洲城
清洲城は1405年、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。1478年に守護所が清洲城に移転することで尾張の中心になった。織田信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1582年の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。このような歴史に残る事件が清洲で起こった。 清洲城は愛知県清須市にあり近くには五条川が流れている。JR東海道本線「清須駅」、または名鉄「新清須駅」から、どちらも1Km前後で、徒歩15分ぐらいの所にある。 天守は資料館になっており戦国時代の資料が展示されている。映像や模型を使っているためわかりやすかった。 地域や城郭の名称として「キヨス」を表記する際「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合があるがどちらも正しく、同じ地域や城を示している。