高校3年生1学期の現代文B最後の授業で、長谷川櫂「平気―正岡子規」を読みました。評論のジャンルに採用されている東京書籍の教科書教材です。正岡子規が宿痾の病に苦しみながら35年の生涯をいかに「平気」で生き抜いたか、その「滑稽の精神」を彼の残した作品の中に読み取るというものです。
ところで、正岡子規が無類の野球好きであったことは、伊集院 静の「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」にも詳しく描かれていますし、バットを携えた練習着姿の若かりし日の子規が写真に残されていることからも事実だったのでしょう。それに乗じて、子規が「baseball」に自分の幼名(升=のぼる)に因んで「野球(の・ボール)」と命名したというのは、よく耳にする話ではありますが真偽のほどはよくわかりません。
しかし、文明開化の呼び声高く次々と輸入された新しい文化に「tennis ball」には「庭球」、「love」には「恋愛」、「democracy」には「民主(本)主義」……等々、英語のまま普及させてもよかったはずなのに、一つひとつにきちんと日本名を付けて、日本人に新しい文化のありようを知らしめ、取り入れていった当時の文人達の功績を思わずにはいられません。
それに比べて…と言っては失礼かもしれませんが、現代の日本語にはあまりにも多くの外国語が無原則に使用されています。その使用が果たして必要な一語なのか、日本語ではなぜ駄目なのかを問いただしたくなるような文章にしばしば出くわします。
・「アッカド語では『存在する』と『命名する』とはシノニムなのである。」(「言語と記号」丸山圭三郎)
・「新型コロナウィルスの感染拡大の状況は、新たなフェーズに入ったと考えられます。」(NHKラジオニュース)
確かに、英語を知らなくても文脈から「同義語」・「局面」と判断できるはず、だからこんな事に目くじらを立てる必要はないのかもしれません。しかし、その使用によって、読者や視聴者が理解に手間取ることになるなら、あえて「synonym」「phase」と表現しなくてもよいのではないでしょうか。
現代社会のグローバル化にいわば甘えて、外国語を日本語に直す手間を省こうとしているのなら、日本語の未来を心配する声は当然上がってくるだろうし、もう一度あの明治の文人たちの努力を見ならう必要があると考えるのは、私ひとりではないと考えます。