2018年8月11日(土)
ホテル東横INN彦根駅東口…彦根駅―(東海道本線)―近江八幡駅―(近江鉄道)―八日市駅―(近江鉄道)―高宮駅―(近江鉄道)―彦根駅…彦根城・玄宮園・散策…近江鉄道ミュージアム・見学…彦根駅―(東海道本線)―米原駅―(東海道本線)―大垣駅―(東海道本線)―豊橋駅―(東海道本線)―島田駅―(東海道本線)―沼津駅―(東海道本線)―横浜駅・解散
本日は、近江鉄道1dayパスを利用して、近江鉄道に乗りました。近江八幡駅から分岐駅の八日市駅や高宮駅を見物しながら乗りました。
彦根駅に戻ってから、彦根城や玄宮園を散策しました。彦根城は彦根駅近くの小高い丘の上にあり、天守閣から琵琶湖が綺麗に見渡せました。彦根城の天守閣を見学してから、玄宮園にも立ち寄りました。魚躍沼を挟んで眺める臨池閣や彦根城は趣がありました。今日も30度を超える真夏日でしたが、天守閣の中、沼や堀の周りは涼しかったです。
次に、近江鉄道ミュージアムを見学しました。近江鉄道で保存されている電気機関車や車両基地にある電車を撮影しました。資料館には、近江鉄道の記念乗車券や電車の部品が販売されていました。
近江鉄道ミュージアムを見学してから、東海道本線を乗り継いで東京へ帰りました。今回の合宿期間中に、台風が来たり、各地で集中豪雨がありましたが、偶然にも鉄道研究部は台風や集中豪雨に直撃されずに済みました。計画通りに良い合宿が出来ました。
高2B組 高神の剣凪 近江鉄道
滋賀県下で最古の私鉄である。近隣の鉄道会社やバス会社などと何度か合併を行ったほか、親会社が2度にわたり変遷しているが、社名や社紋は会社設立時から一切変更されていない。明治期に発足した私鉄のうち、創立以来社名を一度も変更せずに存続しているのは近江鉄道のほか東武鉄道と島原鉄道がある。
かつて近江鉄道の略称として「近鉄」が使われ、読み方は「きんてつ」であった。しかし、1944年の近畿日本鉄道発足後、「近鉄」は同鉄道およびそのグループ会社の略称として使われるようになり(「近畿日本鉄道社#社章・略称・ロゴについて」も参照)、近江鉄道を「近鉄」と呼ぶのは年配の近江鉄道沿線住民に限られるようになった。現在では「近鉄」に代わって「ガチャコン電車」という愛称が定着しており、比較的若い世代を中心に「ガチャ」とも略されている。「ガチャコン」は電車の走行音に由来する。
戦後一貫して西武グループの会社であることから、電車は元西武401系電車など西武鉄道の中古車両を種車とする改造車両を主力とし、バスと一部の鉄道車両には西武鉄道系列の企業らしくライオンズカラーやレオマークが施されている。また、社員が西武ライオンズ(当時)の応援にかり出されたことがある。1985年の日本シリーズで、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場では地元阪神タイガースの応援が圧倒的であり、座席の確保もままならない状況で、ライオンズファンを球場内に少しでも多くアピールするため、地理的に近い同社社員が駆けつけたものである。なお、この時の成績はライオンズの2勝1敗であった。また、シーズン中のライオンズの関西遠征に伴うバス(ライオンズカラー、レオ・マーク付)による選手送迎も行う。
近畿地方の公共交通機関が多く加盟しているスルッとKANSAIに加盟しておらず、近江鉄道の鉄道・バスの全区間でスルッとKANSAI対応カードやPiTaPa、ICOCAは利用できない(全駅にわたってICタッチセンサーなどを含む自動改札機そのものが設置されていない)。なお、大津営業所管内の一部の路線バス(大津市の瀬田地区と草津市内の一部路線)では、自社専用の「近江鉄道バスICカード」が利用可能である。ただし、主に立命館大学の利用者が使用する前提であり、バスICカードには立命館大学を表すRマークと「RITSUMEIKAN」のロゴが描かれている。
2010年3月までの旧本社社屋は彦根私立小学校だった建物(木造校舎)を使っていた。
高2D組 リョー 近江鉄道ミュージアム
近江鉄道ミュージアムは毎月一回ほど開館される鉄道資料館です。近江鉄道で活躍していた電気機関車や館内では、昔懐かしい資料、写真、鉄道部品を公開されていました。そのほかに電車の部品(つり革、ドアなど)や今まで発売していた記念切符も販売していました。
高2C組 トミー 彦根城
「彦根城」は、滋賀県彦根市金亀町にある日本の城です。この城を作ったのは「徳川四天王」のひとりといわれる「井伊直政(いいなおまさ)」の息子である「井伊直継(いいなおつぐ・後の直勝)」です。その創建された時の天守閣がそのままの姿で残っています。そういうお城は有名な「姫路城」をいれて全国でも少数しかありません。
この城を作った井伊氏は大河ドラマ『おんな城主 直虎(おんなじょうしゅ なおとら)』や幕末で有名な『桜田門外の変』で殺された大老で知られる「井伊直弼(いいなおすけ)」もそうです。
「関ヶ原の戦い」などの功績を家康に認められて、石田三成の領地だった「近江国佐和山(滋賀県彦根市)」18万石を与えられました。
それは家康が西国の見張りと、朝廷を護るために徳川最強の井伊家軍団を配置したといわれています。
それだけ直虎に対する信頼は厚かったのでしょうね。
1602年、直政は家康への長年の奉公の過労と、たぶん関ヶ原の戦いでの傷が完治することなく、戦場を駆け抜けた一生を終えました。直政が近江へ移転して来た場所は、石田三成の「佐和山城」でした。この城は「三成に過ぎたるものが2つあり、島の左近に佐和山の城」といわれるくらいの名城でしたが、直政は石田三成が大嫌いだったために、対岸の米原市に城を建て直すつもりだったそうですが、その前にお亡くなりになってしまったために、その計画はつぶれました。直政の死後、嫡男の「井伊直継」が家督を継いたのですが、まだ幼かったので家老の「木俣守勝(きまたもりかつ)」が、家康と相談して直政の「新しい城を」という遺志を継いで、1603年琵琶湖に浮かぶ「彦根山(金亀山、現在の彦根城のある場所)」に彦根城の築城を開始しました。