柄に似合わず星を見るのが好きだ。仕事帰りに足を止め無心に空を眺める。その刹那は寒さも疲れも忘れるほどに冬の星座は美しい。
見るだけなのであまり詳しくないがこの季節だとオリオン、北斗七星、カシオペア、蠍等が夜空で威張っていようか。昔は占星術専門家というのもいて星の位置や周期的な動きを長い年月をかけて観察し、国家の命運や人の運命を占ったという。一般庶民も似たようなもので、星は生活の道標だとさえ言われた。田植えや農作物の収穫時、動物の出産や災害の到来を星に頼ったことは、近代科学の前では一笑に付されそうだ。が、神秘的かつ魅惑的な浪漫と妖しさを放つそれに人が眩いすら覚えることは必然のことではないか。
私の母校は前身が農業学校で、にちがく並みの歴史と伝統を誇る。校舎にはプラネタリウムがあってよく理科の先生が見せてくれた。「何故、天文学部もないのに?」と訝しくもあったが前身を考えれば成程、合点がいく。
故郷の実家はど田舎なもんで山、海、畑しかない。民家もぽつりぽつりと建っており隣家まで500mもある。もちろんコンビニはおろか自販機もなく、信号も横断歩道もない。夜も更けると人っ子一人通らず、港に停留した船の汽笛が聞こえてくるような半農半漁のひなびた村だ。だから車もめったに通らない我が家の前で大の字になって子供のころから星を眺めていた。それが今も続いているとは…(流石に道の真ん中で大の字というわけにはいかないが…)。年に何度か流星群が到来するともう、心ワクワクしてならない。夜が待ち遠しくてならない。
近代科学が獲得したものは「計算できるもの、目にえるもの、表現できるもの」と見田宗介は語り、喪失したものは「計算できないもの、目に見えないもの、言葉に表現することができないもの」続ける。
公共の場で多くの人が下を向いている。スマホを片手にそれぞれの世界に浸る。高校生が参考書等を手にし、寸暇を惜しむような姿を電車内で見かける。そうでなければ皆、寝てる。昭和の時代に「上を向いて歩こう」という歌があったがあれは涙をこぼさぬためだったかな。今は近代科学によって失ったものがあるってことに気づいてよ、思い出そうよ、という警鐘に思えてならない。
手にしているのは何であれ、下ばかり見てないでたまには上を見てみませんか。夜空に瞬く星でも眺めてみませんか。とても言葉なんかでは筆舌に尽くしがたいものが見られますよ。知らずに無為に時間を過ごすなんてもったいないですよ。日本人は自然と共生しているんです。もしかしたら喪失は無関心から生まれてしまったのかもしれません。
12月15日ごろ年間三大流星群のひとつ「ふたご座流星群」がみられるそうです。条件が揃えば1時間に40~60、一晩で500個を越えるとも。12月23日頃には「こぐま座流星群」も。「科学を捨てよ天を見よう」ほんの僅かな間でいいから。